わたるデザイン企画

4年間のニート経験者が語る「引きこもりの極意」

2020.05.01

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どーも、わたるデザイン企画五十嵐です。
最近facebookなどのSNSでは「自粛で引きこもってストレスが、、、」という投稿をよく見かけます。これまでと違った生活になかなか馴染めずしんどくなっている人が増えてきているのでしょう。

僕も当然家に引きこもっていますが、実は全くストレスはありません。というのも、僕は過去に4年間もニートとして引きこもっていた実績(?)があるのです。引きこもっていることをストレスに感じていたら、4年間も引きこもりニートはできません。
今日は僕が4年間のニート生活で培った「引きこもりの極意」を皆さんに伝授したいと思います。
ただ今回は応急処置のようなインスタントな方法論ではなくて、価値観の根幹から変えていくような本気の極意になりますので、特に現状に困っていない人は軽くサラッと読む程度で構いません。今の現状にストレスを強く感じていて自分ではどうしようもないという方へ、本気で伝えようと思います。
では1つずつみていきましょう。

今の状況を「自分で選択したのだ」と自覚する

「自粛」という言葉の意味について、テレビやネットの中でも度々議論されているようです。
検索して意味を調べると「自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。」と出てきます。それに対して「自粛を要請する」とは矛盾しないか?という議論ですね。
正直その議論は全く持って不毛なので無視しましょう。

肝心なのは「自分がどんな行動を選択するのか」という部分のみです。コロナという災害に対して、政府の要請に対して、職場の指示に対して、「自分がどうするのか?」ということだけが重要なのです。コロナの危険性や政府の考え、自分の所属する会社などの団体がどういう方針なのか、それらを踏まえてどう行動するかはあなたの自由です。日本では法律や政府の命令で我々国民の行動を100%制限することは現状ではありません。最終的には全て個人が「自分で決めて行動」するのです。

だから、「自粛しなきゃいけない」「引きこもらなければならない」というのは幻想で、「自粛することを自分で決めて」「自ら進んで引きこもっている」のです。その認識を持たないと、例えば「コロナのせいで」「政府の緊急事態宣言のせいで」と他者に責任を転嫁することになります。責任転嫁することが悪いのではなく、「責任転嫁したところで現状は変わらない」ということを自覚しないと、よりストレスは強まります。人は「思い通りにならない」とストレスを感じるものです。コロナウイルスを自らの手で消滅させることはできませんし、政府の緊急事態宣言を覆したいなら選挙に立候補して影響力のある地位まで登り詰めるしかありません。とても今すぐ実現できる方法ではありません。

今の現状は新型コロナウイルスという災害がもたらしたものです。それはもうどうにもならない現実です。その現実の中でも自分がどんな行動を選択するのかというのは自分で決めることができます。どんなに生活が困窮していようと本来選択肢はたくさんあります。だけどどうしても追い詰められると選択肢が狭まって、その道しかない、選びようがないと思ってしまいます。
たとえ今目の前に1つしか選択肢を見つけられなくても、その1つを自分で選ぶという自覚を持ってみてください。
「選ばされた」と「選んだ」では全く意味が変わります。
まずは今の現状は「自分が選んだのだ」と考えてみましょう。

この考え方の注意点

ここでよく間違えるのが「自分のせい」と捉えることです。
他人のせいにしない代わりに自分のせいにしてしまうことはよくあります。ですがこれは精神衛生上非常によろしくないです。「自分のせい」と考えてしまうと、次から何かを選択する時にも恐怖心が強くなり、どんどん自分を追い詰めます。

こういった考え方になってしまうのは、「結果」と「成果」を混同していることに原因があります。「結果」は行動選択によってもたらされた「事実」です。それに対して「成果」は行動選択によってもたらされた「事実」と「期待(予測)していた状態」の「差」によって感じるものです。

「テストで60点とった」という「結果」があって、それに対して目標が50点だった場合には目標を達成したという「成果」を得るわけです。この結果と成果をきちんと整理できていないと、ただ闇雲に「60点という悪い結果だった」というようにマイナスの印象だけ得てしまうことがあります。本来は目標を設定していなければマイナスもプラスもないのに、結果をみて後から「これは悪い」と評価してしまうと、まるで悪い「成果」を得たように感じてしまうということです。

「自分のせい」という言葉を使う人は大抵こういった思考回路であることが多いです。そもそも明確な目標設定をせず、結果に対してそれを悪く評価して「自分のせい」といいます。本来なら目標を設定してそれに対して考えうる効果的な行動をしてみて、その結果どのような成果を得るか?というステップを踏みます。そうすると、得た成果に応じて「満足」なのか「もっとこういう方法があるかも」と試行錯誤できますが、もともと目標を設定して行動していない場合には単純な「後悔」や「不満足」だけが残ります。
今回の場合、新型コロナによってこのような状況になることは多くの人が予想できていなかったことです。現状自粛して引きこもっていることも、仕方なくやっている人もたくさんいると思います。そういった「これまでの選択」に関しては、もともと目標や求める成果をはっきりさせていないものですから、成果ではなく結果があるだけです。反省も後悔もいりません。ただ現状をよくみて、自分がどんな状態か、世の中がどういう状態なのかみてみればいいのです。今までの現状に対して「自分のせい」と考える必要は全くありません。
「これから」何を選択するのかを考えればいいのです。

ちなみに、ニート時代の僕は「自分でニートになることを選んだのだ」と考えていました。実際に自分で進学も就職も選ばずにニートになったので、事実そのままなのですが、この考えがニートを長く続ける秘訣でした。誰かのせいにするのも自分のせいにするのも、前述の通り非常にストレスになります。自分の選択だと思うことが唯一ストレスのない考え方だったのです。そしてその考えがあったおかげで、やがて「ニートを脱する」ということを自分で選択できることにもなるのですが、それはまた別の機会に詳しくお話しすることにしましょう。

ひまは「つぶさない」

引きこもり生活が続く中で、「ひまつぶし」という言葉を目にする機会も増えました。ただこのひまつぶしという言葉は、多くの現代人にとって非常に相性の悪い言葉です。そのことを自覚しないでひまつぶしを実行してしまうと、ストレスの原因になります。

まず、現代人の多くが「消費思考」だということを自覚しましょう。僕も、これを読んでいるあなたもほぼ確実に「消費思考」を持っています。
消費思考とは何かを簡単に説明すると、「何かを消費して対価を得る」という考え方です。お金を払って料理を食べる、時間を使ってテレビを見る、といった風に、「何か」を差し出して「価値」を得ることです。これはここ数百年の人の基本的な思考です。社会の仕組みがそもそもそうなっているので、こういった思考は持っていて当然です。

問題なのは消費思考が行きすぎて「客思考」になっている場合です。簡単にいうと、消費思考に「損得」の考えを強く加えたのが客思考です。
消費したものに対して得た価値が「大きく」なっていないと納得がいかない、と感じるならそれは客思考です。当然そういった人は消費に対して得た価値が「小さく」なっていた場合は酷くストレスを感じます。
そういった客思考は「ひまつぶし」という言葉と非常に相性が悪いのは、言うまでもないかもしれませんね。
ひまつぶしの意味を調べると「余った時間を適当にすごすこと。時間をむだなことに使うこと。時間つぶし。」と出てきます。一言で言えば「時間の浪費」です。消費した時間に対してまったく見合った対価を得られていない状態ですから、客思考の人にとってはこの上ないストレスになります。

さらにこの客思考には大きな特徴があります。
それは自分が消費したものに対する対価は「誰かから与えられるもの」だと考えている点です。
乱暴にいうと「自分はお金を払った、だからそれと対等かそれ以上の価値をよこせ」という考え方です。「お客様は神様だ」と自ら名乗るお客さんはこの考え方の極端な例と言えます。
自分はそんな考え方をしていないと思うかもしれませんが、残念ながらこの思考は誰しもが大なり小なり持っているものです。そしてこの引きこもり生活にストレスを感じている人なら、高い確率でこの客思考が強い人だと言えるでしょう。
人やもの、サービスに触れる機会が減った現状では誰かから対価を受け取ることができないですから、客思考の強い人はストレスが強くなるはずです。

では逆に、どう考えればストレスなく考えられるでしょう?
それは客思考ではなく「創造思考」になることです。クリエイティブに考えるというとよく聞く言葉になるでしょうか。
創造思考も大枠で言えば「何かを消費して対価を得る」という部分で消費思考の中に含まれます。ただ客思考と大きく違うのは「対価を自ら生み出す(感じる)」というところにあります。
例えば食事をする場合、「お金を払って料理を買って食べる」は消費思考ですが、「時間をかけて料理を作って食べる」は創造思考です。どちらも料理を食べるということは変わりありませんが、それを自ら生み出していることに大きな違いが生まれます。
仮に、その料理が「美味しくなかった」としましょう。お金を払って食べた場合だと料理が美味しくなければ満足度は低くなります。先程の客思考で言えば「損をした」と思う可能性が高くなります。
でも創造思考で自分で料理を作った場合、その料理が「美味しくなかった」なら当然気持ちは落ち込みはするでしょうが、「次は失敗しないようにしよう」と思うことができます。つまり、「美味しい」という価値は感じられなくても「経験」という価値を得ることができるのです。
このように、創造思考の最大の特徴は「感じる価値を自分で作り出すことができる」ところにあります。料理ひとつとっても、「美味しくできた」「見栄えがよくできた」「手早くできた」「原材料費を少なくできた」「美味しく食べてもらえた」「作業が楽しかった」など、価値を感じられるポイントは数えきれません。人によって価値を感じるところも千差万別でしょうから、無限といってもいいかもしれません。
創造思考で行なった行動は、消費したものに対して得た価値を小さく感じる可能性がかなり低くなるということです。
創造思考であれば「ひまつぶし」も決して悪いものではありません。むしろ創造思考の人は普段から嬉々としてヒマな時間を楽しんでいるのではないでしょうか。

では客思考から創造思考にチェンジするにはどうすればいいでしょうか?
まずはなんでもいいので消費したものにプラスアルファ「形」を残すことをお勧めします。
例えば料理を食べたならその写真を残す、テレビをみたならその感想をどこか(SNSなど)に書いてみるなど、直接の対価以外に自分の手で何かをプラスして残すことです。読んだ漫画の感想を友達や家族と話すといったことでも構いません。とにかく消費と直接の対価以外に、何かをプラスすることです。そうすることですこしずつ「自分で価値を生み出す」「自分で価値を感じる」ことが身についていくでしょう。
一朝一夕で変わるものではないですが、この状況が長期化するであろうことを考えると、先行投資として取り組むことは価値あることだと思います。

ちなみに僕がニートの頃は、小説を書いたり粘土細工をやったり、曲を作ったりホームページを作ったり日記をつけたり、とにかく何か形に残ることをしていました。誰に見せるでもなくただただ自己満足でしかありませんでしたが、とにかく「時間を無駄にしてないぞ」と自分に認識させることがニート継続の要でした。それでも、ニートを脱した後に4年間でやったことを書き出してみたら、ノート見開き1ページで終わるくらい何もしていなかったのですが、創造思考であればその程度のことしかしていなくても十分ストレスを感じなくなるということでもあります。

本当の「独り」になる

独りでいることは寂しいですか?
誰かといることは必要なことですか?

ここ数年で、特に2011年の震災以降、人と人の繋がり、「絆」という言葉、そういったものが一つのキーワードになってきたように思います。
今回のコロナ災害も、人と人との繋がり・支え合いで乗り越えよう、といったムードをみなさんも感じていると思います。
それはそれで素敵な考え方だし、実際、1人よりも2人の方が、生み出せる価値は爆発的に増えると思います。

ただ、人は独りであるということも、忘れてはならない大事なことだと思うのです。

今回のコロナ災害、最大の敵はなんだと思いますか?
僕は「人」だと思います。
コロナを広めるのも食い止めるのも人です。
国とか自治体ではなく、一人一人の個人の行動が全ての要です。
緊急事態宣言によって国や自治体ができるのは「要請」までです。
最初の極意で言ったように、その先の行動を決めるのは「個人」です。

給付金の配布方法とか、補助金の申請とか、サポートはもっと細やかであるべきだと批判・意見する人もいますが、根本的なことを忘れていませんか?
国とはそもそも、僕ら一人一人のことです。僕ら一人一人が国を創る主体です。 政府が提供するサービスを享受する客じゃないんです。
「今何をすべきか?」を考えるのは本来僕ら一人一人なのです。

今回のコロナ災害も、言葉は悪いですが、何も考えなしに行動したバカが多かった故に、ここまで状況は悪化してきたわけです。
自分の仕事が立ち行かなくなる状況はいくらでも想像できたはずなのに、なんの変化もせずに状況が悪化するままに、最終的には支援金の申請がややこしいと文句を言う。先に話した客思考そのものです。
もう一度言いますが、国民は国のお客さんじゃなくて主人なのです。この状況を切り抜けるのは政府じゃなくて自分です。

経済的、精神的な困窮、問題は確かにたくさんあるのかもしれませんが、それは他の誰でもない自分が乗り越えるべき課題です。
ただそれらを紛らわすために仲間と繋がるとか、施しを求めて差し伸べる手を探すのではなく、一度じっくり「独り」を味わってみるべきです。
「独り」で自分というものをもう一度見つめた上で、何を選択するのかを考えるのです。

もちろん、自分で考えたって、選択したって、どうしたってできない人だっているのも知っています。誰かの助けがないと生きていけない人がいるのも知っています。助け合いが必要なことはわかります。でもあなたはどうですか?今この文章をここまで読んでくださっているということは、「自分で」まだできることがある人ではないですか?

「引きこもり生活でストレスが溜まっている」
もしかしたらジョークで言ったことかもしれません。少しでも周りを和やかにしようと思っただけかもしれません。ちょっとしたアイデアで日々のストレスは和らぐかもしれません。
そのうちこの災害も、どれだけ長引くかはわかりませんが、1年か2年、時間さえ経てばおさまるでしょう。
でもそれだけで終わったら、この先また災害が起こった時、何ひとつ変わりません。
災害に備えて備蓄や準備をしようという話ではありません。
考え方を見直そう、ということです。

今あなたが感じているストレスは、今この時に生まれたものではないのです。
あなたの考え方がこの状況に出会ったその反応がストレスになっているのです。
考え方と状況、どちらを変えれば良いでしょうか?
これまでもそうだったように、これからも地震や台風や疫病といった抗いようのない状況は訪れます。
考え方を変える習慣を身に付けた方が、効果的ではないでしょうか?

もちろん変わるか変わらないかは個人の自由です。
ただ、せめて今自分がどういう考え方で生きているのか、
周りはどんな考え方で生きているのか、
日本はどんな国なのか、これからどうなっていくのか、
考えてみたらどうでしょう。

いつまでもこの国の「客」が増えるだけでは困るのです。
ましてや固まってぞろぞろ歩く「団体客」はもはや邪魔でしかありません。
「独り」の「国の主」としての意識をもってみてください。
ピンチをチャンスに、と言うならば、今はまさに「独り」を考えるチャンスです。

最後に

いかがだったでしょうか?
こういうことを今までに一度でも考えたことはありましたか?
あるのならこの状況でそれほど大きなストレスは感じていない人のはずです。
まとめるとすごくシンプルです。

主体的で創造的な人である

これだけで日々のストレスは激減します。
これは今の状況に限らず、いつでもそうです。

全編を通して、特に最後の章に関しては何様だというくらい偉そうなことを言いました。
実際、何も成し得ていない僕が語ったところで説得力はないでしょう。
でも、「そんな程度」の僕ですらこういうことを考えているのです。
言葉にして表現したからにはそれを体現できる人になるのだ、という意思表示でもあります。

僕はニート時代にこういうことを散々考えてきて、ニートを脱したあとも相変わらず考えてきて、ただそれだけでした。
ようやく、その考えてきたことを行動として自分の人生に還元し始められたところです。
まだまだ結果は出ないですが、この状況で日々をワクワクしながら過ごしていることが自分自身を勇気付けています。

みなさんの日々も、ワクワクできる日々であることを祈っています。