認識するということ
2020.11.21
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「認識」という言葉に対して、皆さんはどういった意味だと捉えているでしょうか?
「認識が足りない」とか「認識が甘かった」みたいな感じで、反省するときに使うことが一番多いかなと想像しますが、普段どれくらいこの言葉を使っているでしょうか?
僕はこの「認識」という言葉が好きで、コミュニケーションの中で使うことは少ないかもしれませんが、個人的に何か考えを巡らせるときはものすごくよく使う言葉です。
今日はこの「認識」という言葉を考えて見ようと思います。
認識という言葉
まずはお決まりの辞書的な意味を調べてみましょう。
「認識」という言葉をインターネットで検索するとこう出てきます。
物事をはっきりと見分け、判断すること。
そういうふうにして物事を知る、心の働き。
また、その知った事柄。
なかなか興味深いです。
1つ目の意味がやはり一番馴染みやすいでしょうか。
「物事をはっきりと見分け、判断すること。」とあり、冒頭に挙げた「認識が足りない」とか「認識が甘かった」という使い方のときにはこの意味で使用しているのでしょう。
「物事をはっきりと見分け、判断することが足りていなかった」だから「想定外のことが起きた」というような振り返りをすることは多そうです。
認識の主な意味が、物事に対する「理解」とそれに基づく「判断」にあるということでしょう。
気になるのは2つ目です。
「そういうふうにして物事を知る、心の働き。」とあります。
「そういうふう」というのは1行目のことを指していますから、まとめると
「物事をはっきりと見分け、判断して物事を知る、心の働き。」
ということになります。
僕が気になっているのは「心の働き」という部分です。
「物事をはっきりと見分け、判断する」ことはどちらかというと「頭」で行うことのイメージがあります。論理的に考えて、物事を整理することですから、「心」というよりも「頭」の役割が大きそうに思います。
「心」というともっと、嬉しいとか悲しいとか、感情によって判断するようなことをイメージしますが、「物事をはっきりと見分け、判断する」という「認識」を「心の働き」だと説明しているわけです。不思議ですよね。
不思議なんですが!
実は!
「不思議だ」と思っている今この瞬間こそ、僕たちが「認識」という行動をしている瞬間だということに、お気づきでしょうか?
心の動くと認識が変わる
さて、妙な引っ張り方をしました。
章の変わるタイミングで少しでもご自身で「認識」という言葉について考えたでしょうか?
「認識」が「心の働き」だということが不思議だ。
その不思議だと思うことこそが「認識」だ。
というなんともぐるぐると回る説明の続きです。
僕が思う「認識」という行為の役割とは、「今まで自分が見ていなかったものを見ること」です。
例えば、待ち合わせのために駅前に1人立って待っていたとしましょう。
待ち合わせ相手はまだ来ていません。
自分はぼーっと何も考えずに佇んでいます。
するとうしろから声をかけられます。
振り向くと待ち合わせ相手が立っていました。
という場面を想像してみてください。
待っている間、自分から待ち合わせ相手のことは見えていません。
しかし、声をかけられて振り向くと相手がいる。
そこで初めてその相手のことを「認識」します。
見えていなかったものが見える瞬間です。
姿を見る前には「あいつはまだいない」と思っていたのが、姿を見ると「あいつがいる」という風に変化します。
その変化のことを「認識」と呼びます。
これが僕の思う「認識」という言葉の役割です。
で、この例に「心の働き」を加えてみましょう。
待ち合わせのために駅前に1人佇んでいます。
相手が10分以上遅刻しているため僕は「イライラ」します。
イライラするので「早く来ないかな」と思ってあたりをキョロキョロとします。
すると、遠くから歩いてきている待ち合わせ相手を「見つけ」ます。
僕は「遅刻しているのに悠長に歩いてくるとは何事か」とさらにイライラします。
さて、こちらの場合の「認識」はどうなっていたでしょうか?
基本的には1つ目の例と同じく「待っていて、相手を見つける」という段階で「認識」は発生しています。
しかし、気持ちの働きが加わることで認識が「自分の行動によって」行われるように変わったことに気がつくでしょうか?
さらに言うと、心の働きが加わることによって、このエピソードが「待ち合わせした話」から「イライラした話」に変わっていることもわかります。
どちらも例を挙げた僕のさじ加減に感じるかもしれませんが、とにかく、「心の働き」が「認識」に対してなんらかの作用を及ぼすということだけわかっていただければと思います。
何が言いたいかと言うと、先ほど僕が「不思議だ」と感じたときにそれが「認識」という行動になっていると言いましたが、つまり、「人の心の働きが認識を生むきっかけになる」ということです。
何の感情もないフラットな状態で見る景色と、イライラした気持ちで見る景色と、優しい気持ちで見る景色と、不思議だなと思う気持ちで見る景色と、それぞれで「認識」が変わるということです。
認識とは「物事をはっきりと見分け、判断すること。」でもありました。簡単に言うと物事を理解することです。
つまり、人の「心の状態」によって「理解」が変化するのです。
わかりますか?
これが「人によって考え方が違うよね」という言葉の正体です。
考え方というのは「その人固有の、理解の積み重ね」です。経験してきたことが違えば、考え方も違う。これは誰しも納得できると思います。
それは言い換えれば「人それぞれ認識が違う」ということです。
同じ場所で同じ体験をしたとしても、その時のそれぞれの「心の状態」が違っていれば「認識」も違ってきます。同じ体験でも認識が違えば、ある人は心地よく感じるかもしれないし、ある人はものすごく不快かもしれない。
もしくは、同じ人間であっても、ある人から見れば優しい人、またある人から見ると怖い人、またまた別の人から見ると嫌な人に見える、といったように、対人関係においても同じことが起こります。
世の中どうしてこんなにも一人一人考え方や感じ方が違うのだろう?
と思うことがあるでしょうか?
もしあるのならば、一度この「認識」という考えかたを取り入れてみてください。
あの人はどんな認識をしているのだろう?
と考えてみると、今までと違った見方ができると思います。
それこそがあなたの「認識が変わる瞬間」です。
まとめ
いかがだったでしょうか?
「認識」という言葉を普段ここまで考えることはないと思います。
ですが僕はこの「認識」こそがこの世界のことを理解するためにもっとも重要なことだと思っています。
次回はこの「認識」を使って「自分を認識する」ということをお話ししたいなと思っています。