わたるデザイン企画

僕が脱ニートを語る2つの理由と1つの想い

2020.10.03

脱ニート

読了目安時間:(約字)

こんにちは!こんばんわ!
札幌でフリーデザイナー・コーダー・コピーライターとして活動しています、わたるデザイン企画の五十嵐です!

これまで「ことば力」や「WEBサイト自作・自営のすヽめ」などのテーマでいくつか記事を書いてきましたが、今日からまた少し違ったテーマで書いていこうと思います。

それは「脱ニートを紐解く」です。

僕は高校を卒業して進学も就職も全くせずストレートでニートになり、そのまま4年間ほぼ引きこもりニートをした経験があります。

そこから職業訓練を経てフリーランスのデザイナーになるわけなのですが、その脱ニートの過程を紐解くことで、今ニートで脱ニートに向けてもがいている人たちの少しでも力になればいいと思い、このテーマで書くことにしました。

しかし、こういったことを言うと、これを読んでいる現役ニートの方はきっと、

「また『自分はできた自慢』か。あんただからできただけだろ。自分はそれができないからニートなんだよ」

と思ってしまうでしょう。
ですがちょっとだけ、待ってください。もう少しだけこの記事を読んでみてください。

僕もニートだった頃「ニートを脱する方法」というWEBサイトを見て同じ気持ちになったことがあるからわかります。

「誰かの脱ニートの経験」なんて、あくまでもその人の環境や状況、その人自身のもともとの性格とか、そういったものにもとづいて書かれていて、自分の今の状況に当てはめることもできないし、ただただ「自分ができたんだから君にもできる」みたいなことしか言っていないので、何にも役に立たないですよね。

僕もそれがよくわかっているから、これまで自分の脱ニートの経験を「誰か他の人のために」語ったことはありませんでした。

でも今回改めて脱ニートについて、脱ニートをしたいと思っている人のために書こうと思ったのには2つの理由と1つの想いがあるからです。

もし、脱ニートをしたいと思っているあなたがこの記事にたどり着いてくれたなら、どうかもう少し、この記事を読んでもらいたいと思います。

一度に全て読まなくても良いです。1日に少しずつ読んでもらってもいいです。でもどうか最後まで読んでいただきたいと思います。

理由その①「経験を経験のままにしていない」

僕が脱ニートについて語ろうと思った理由の一つ目は、僕はニートの経験と脱ニートの経験を「ただの経験」のままにしていない、からです。

ただの経験とそうでない経験の違いは何かというと「記憶に頼るか頼らないか」という部分に大きく関わります。

大抵の人の「体験談」や「経験談」というのは、その人の「記憶」を元に語られます。人は過去の記憶を思い出すとき、「自分の語りたいことに当てはまる部分だけ」を切り取って、つなぎ合わせて話すことが多いです。つまりは今の自分に都合の良い風に改ざんすると言ってもいいでしょう。少し大袈裟に言っているように聞こえるかもしれませんが、これはもう人間の特性と言ってもいいようなことだと思います。

僕は人が記憶をする時には2種類の記憶の仕方があると思っていて、一つはその時起きた出来事の「事実」を記憶するのと、その出来事に対する「自分の心情」を記憶するパターンです。

事実を記憶するというのは、例えば何年何月何日の何時ごろにこんな事件が起きた、というように、実際に起こった出来事の情報をそのまま記憶するというものです。これは世の中的に認識されているものであれば事実確認ができるし、個人的な出来事であっても写真や何かしらの記録があれば記憶していることが正しいかどうかの判断ができます。

それに対して「自分の心情を記憶する」というのは、起こった出来事に対して「楽しかった」とか「悲しかった」とか「怖かった」とか、そういったその時の気持ちを記憶することです。

ほとんどの場合、この「事実」と「心情」を合わせて記憶するのですが、その記憶を思い出す時に「心情」に引っ張られて「事実」が書き換えられるということが、ものすごく当たり前に起こっています。

例えば誰かと喧嘩したとしましょう。お互いに色々と言い合った末に解決せず、少し時間を置いてもう一度話し合おうとなった時に「あの時あんたがこう言ったんじゃないか!」「いいやお前がこう言ったんだ!」と言った言わない論争になることは珍しくないと思います。

この時、お互いに同じ場所にいて、同じ言葉を聞いていたはずなのにどうしてもお互いの記憶が食い違うという謎の状況になりますよね。これが「心情に事実がねじ曲げられている」状況です。お互いに相手の言葉を聞いた時に、その言葉そのものではなく「相手に嫌なことを言われた」という心情のウェイトの大きい状態で記憶してしまいます。そうすると思い出す時にも「嫌な言葉を言われた」という情報から先に引き出すので、それに合わせてどんな言葉を言ったかという事実を改ざんしてしまうのです。

皆さん、何かしら身に覚えがあるのではないでしょうか?

このように、人の記憶というのは意外と簡単に、都合のいいように改ざんされて語られるものなのです。特に自分にとって大事な経験であればあるほど、気持ちも大きく動いた可能性が高いので、事実よりも心情を強く記憶しているでしょう。

多くの役に立たない経験談というのはそんな「心情に引っ張られて事実をねじ曲げている」経験談だと思います。それを僕は「ただの経験」と呼ぶことにしました。

僕が今、脱ニートについて語ろうと思ったのは、僕のニートの経験と脱ニートの経験が「ただの経験」ではないと確信したからです。

その理由は単純です。僕は当時のことを「記録」しているからです。つまり、記憶でねじ曲げられがちな「事実」の部分がねじ曲げようのない「記録」としてノートに残っているから、当時の自分の行動や心情を、当時のまま検証することができるのです。

ニートを経験して現在社会で活躍している人は僕以外にもたくさんいるでしょうが、ニートであった経験、脱ニートの経験を「記録」していて、それを検証できる人間はほとんどいないだろうと思ったから、僕は自分こそが脱ニートについて語るべきだと決めたのです。

僕が語るニート、脱ニートのことは、きっとあなたがこれまでに見てきたものとはひと味違うはずです。

理由その②「経験から本質を見つける」

僕が脱ニートについて語ろうと思うもう一つの理由は、僕が「物事の本質的原理原則を見つける」ということを学んできたからです。

誰かの経験談の中に「自分はこういうことをしたから、こういう結果を得たんだ」という表現がたびたび出てきます。これはつまり「行動と結果の因果関係」を語っているのですが、ほとんどの場合その因果関係は「勘違い」だと言ってもいいでしょう。

厳密に言えば「そう信じることでそういうことになっている」というだけで、事実としてその因果関係が成り立ってるかどうかは怪しいものがあります。

例えば「夢を叶えた人」の経験談。
「私は自分の夢を紙に書いて貼っておきました。だから夢を叶えることができたんです。」
と「夢を紙に書いて貼った」だから「夢が叶った」という因果関係があるかのように語っていますが、これだけでは全くもって不十分なわけです。
これはただの推測ですが、「夢を紙に書いて貼った人」と「夢が叶った人」の統計を取ったとしても、そこに因果関係は認められないと思います。ごくわずかな「夢を紙に書いて貼ったから夢が叶った」という事例だけが目立っているだけです。
実際には「夢を紙に書く」という行為が重要かもしれないし、「紙に書いた夢を毎日みる」ということが重要かもしれないし、全く別の要因が重要で「夢を紙に書いて貼る」ことは全く関係ないかもしれません。

そういう経験談を聞いたところで「それはあんただからできたんでしょ」と聞き手が思ってしまうのも仕方ありません。

僕はニートを脱したのち、これまでの6年間でそういった独りよがりな幻想の因果関係ではなく「本質的原理原則」を学んできました。

具体的に言うと「7つの習慣」という書籍とその勉強会、そしてその実践を通して、人間の自己成長や他者との関わりにおける「こういう考え方をもって、その考え方に基づく行動習慣を形成すると、こういう結果を得やすい」という物事の原理原則を学んできました。

どうしたら自分をコントロールできて、どうやったら他者と良好な関係を築けるのか?ということを7つの習慣を通してもう3年以上学んできて、ようやく、少しずつそれが習慣として身についてきたかなというところですが、ただ「自分はこういうことをしたから、こういう結果を得たんだ」というレベルではなくて「自分のこういった考え方がこういう行動習慣を生んでいて、それではこういう結果を得るには効果的だよな」という風により細かく自分や他人の行動原理について分析できるようになってきました。

ちょっと指示語ばかりで具体性にかけますが、今後自分の「記録」に基づくニートの行動を原理原則になぞらえて分析することで、本当に効果的な脱ニートの方法を見つけ出せるだろうという確信めいたものを得たから、脱ニートについて今一度整理してお伝えしたいとおもいました。

1つの想い

ここまで、僕が脱ニートについて語ろうと思った2つの理由についてお話ししました。この時点で、他の脱ニートを語る人とは何か違うぞということは感じていただけたのではないかなと思います。

最後に、何故僕が今また脱ニートについて語ろうと思ったのか、その想いについて少しお話ししたいと思います。

以前に一度、コロナの自粛が長引いて世間全体に重たい空気が流れていた頃に『4年間のニート経験者が語る「引きこもりの極意」』という記事を書いたことがありました。

その時はコロナで引きこもらざるを得なくなった人たちに「自分の考え方が自分を苦しめているだけだ」ということ伝えたくて、少しでもキャッチーなタイトルと中身にしたいということで「ニート」というキーワードを使いました。

するとその記事を書いてからWEBサイトに「ニート」とか「脱ニート」というキーワードで検索して辿りついている人がちらほらと出始めました。それ以降ニートに関する記事を書いていなかったのでその数が増えることはありませんが、今でもわずかにその検索ルートでWEBサイトをのぞいてくれる人がいます。

僕は「自分以外のニート」にほとんど出会ったことがありません。それも当然です。ニートなんだから、普段の社会の中にはいるはずがありません。

これまでにも自分のニートの経験、脱ニートの経験をなんとか今ニートで苦しんでいる、もがいている人のために使えないかと考えてはいましたが、「実際に存在するニート」というものを感じられなくて、どう伝えたらいいかも、どこに向けていいかも全くイメージできませんでした。

でもその検索結果を見た時に「あ、あの時の自分もこんな風に誰かのWEB解析の数字の一つだったのかな」ということに思い至りました。

「ニートを脱する方法」とか「脱ニート」とか「引きこもり 脱出」とかのキーワードで検索して、でてきたサイトをちょっとのぞいては気持ち悪くなって離脱して、しんどいからまたしばらく検索しないで、またしばらく経った頃に検索して、気持ち悪くなって離れて、、、ということを繰り返していた頃、僕もそのサイトの分析結果に「1」って表示されていたのかな、と思った時に「今わずかでもここにたどり着いてくれた人に、何か少しでもしてあげられないか?」という想いが湧いてきました。

わからないけど、今伝えられることを一度、精一杯伝えてみようと思いました。

もしかしたら今ニートの人たちには全く目にも触れないかもしれないし、目に止まっても全く響かないかもしれない。
でもいつかその人たちの少しの勇気になるためにも、一度挑戦してみようと思っています。

この記事、だいぶ長くなってしまいました。
もし最後まで読んでくださったなら、ありがとうございます。
そして、来週以降の記事も是非読んでください。

力になれるかわかりませんが、頑張ってみようと思います。